少し前のお話。
ふと思い立って井の頭公園の動物たちを見に行こうということになった。
ちょっと風は強いけれど天気はよく、動物園に行く前に井の頭公園をふらふら。
駅から近い池のある方からは水生物園があり、ここで魚や鳥を見て楽しむことができる。
(個人的にはここにいるオオサンショウウオの威風堂々感が好き)
一通り楽しんだらいざ動物園へ。の前にちょっと休憩。
ちょうど公園の出入り口にお茶屋さんがあったので入っておしることみたらし団子を食べることにした。
ここでぼーっとしていると、近くでテニスに興じていたであろうお歳を召した方々が集団で入店。
お店の常連らしく、座るか座らないかもハッキリしない内にビールやつまみをバンバン頼んでいく。
あぁ、運動の後のお酒。しかも昼間のうちからこりゃたまらんよね。と思う。
これがあれか。テニスの王子様ならぬ、テニスのおじい様のたしなみか。
なんてことをふと思いついたがために、のどかな公園のそばにあるテニスコートで
とんでもない必殺技を繰り出す高齢者の姿を思い浮かべてしまうこととなる。
(分からない方は「テニスの王子様」で検索。自分もそこまで詳しくないけど。)
あくまで自分はみたらし団子をゆっくり食べている人である。ポーカーフェイスではあるけれど、
頭の中は割と大変なことになっていた。
そんなくだらないことを考えるのが好きだったりする。
しかもこういうくだらなさは、くだり始めると坂をゴロゴロと転がり落ちるように止まらなくなるので
次第にニヤニヤしてしまったりすることもあるのだから始末に悪い。
とんでもない非日常感ではなく、普通に生活している中で出会ったり気付いたりする
くだらなくも楽しい出来事や思い。
これは交通事故のように出会うこともなくはないけれど、やっぱりそこにはくだらなさや楽しさを
感じるアンテナが必要であるし、取りこんで膨らませる余力や努力も必要だ。
「なにげない日常」の中には「なにげない日常」しかない。素晴らしいものなんてない。 その中から素晴らしさ、おもしろさを見いだすには、努力と根性がいります。 (中略) 毎日をおもしろくするのは自分自身だし、それをやるには必死にならなきゃ何の意味もない。 星野 源『そして生活はつづく』 文庫版あとがきより抜粋
ホントにその通りだよ。と膝をたたいてしまう言葉だと思う。
高円寺は海外からの旅行者も増えてきている街だ。そんな方々には「高円寺の商店街」というのは
とてもエキゾチックに映るようで(なんてたって日本のインドだからね)、街の風景をパシャパシャと
写真におさめる姿もよく見かける。
自分にとってはなにげない日常の風景であり、特別なことなんて何もない。
でもそれが「面白い」と感じる受け取り方だって間違いなくあるのだ。
自分だって旅行で遠い場所へ行くとその街を写真に撮ったりするけれど、そこにあるみやげもの屋の
オッサンにはこの風景が生活の全てなのであって特別に思うことなんてないだろう。
なにげない時間の中で「おもしろさ」を見つけること。それは漫然と過ごすだけでは絶対に届かない感覚だと思う。
「努力」や「根性」と書くと汗臭いけれど、それは「愛情」にも近いのかもしれない。慈しむ姿勢。
彼は1981年生まれで自分と同い年。それだけにシンパシーを感じる部分がありながら、テレビだけではなく
街のいたる所で目にするし耳にするというとても「遠く」に感じる人でもある。
でも彼の文章を読んでみると、そのくだらなさにただただ笑ってしまう。
単純にあけっぴろげでおバカな人ではなく、その根っこというかくだらなさの中にある本音とか真面目さ。
そこはかとなく感じる人としての闇のような部分も含めて。
等身大な人としての温度感や距離感を感じる。それが彼の人気の土台になっているのかもしれない。
そんな扉の開け方があるのか。と笑っている自分に気付いた後に思わされてしまう。
くだらないの中に愛が 人は笑うように生きる 人は笑うように生きる 星野 源『くだらないの中に』より
ホント、その通りだ。